“もっとほんとうのこと”は「場」に現れる。

ある目的の元、人々が集う「場」には、実に複雑な要素が詰まっている。
合理と非合理が、老婆と美女の「だまし絵」のように(CEOの内省_「老婆と美女」をご参照ください)、一瞬で切り替えが可能であるように、「場」に参加する私たちは、一瞬で目的を忘れてしまうことが可能である。

例えば、会社におけるミーティングの場面。日本人は、そもそもの目的を設定せずにただなんとなく集まって話を始めることが多いのではないか。
そして、話題はいつしか意図しないものに移ってしまい、時間だけが過ぎてしまった・・・そんな経験をする人は多い。
ユーザー体験の議論をしようと「目的」を設定して集まってみても、話が30代の主婦の行動に移ると、いつしか「私の友人の話」になり、それが今度は「別のわたしの友人の話」になり、挙句、「実家のお母さんの話」になり、頭の中は「そういえばお母さんどうしてるかなぁ、今夜にでも電話してみようかな」・・・その時、人は「ミーティングの目的」をすっかり忘れ、「あれ?今、何話してたんだっけ???」・・・・よくある話である。

私たち人間には、合理と非合理という論理的には直行するような(相いれない)ことを、一瞬で切り替える能力が備わっている。
つまり、「場」には常に、この次元の違う世界への入り口が開かれているのである。
だから「場づくり」は難しい・・・

これを回避し、合理なら合理、合理と非合理の関係ならそれなりに、「場」を設定し、「目的」を最後まで維持するためには、そもそもの「話し合い」を始める前に、「状況の意味付け」という作業が必要である。そして、話し合いの途中でも、議論の内容が拡散してきたら、何度でも「状況の意味」確認を行うのである・・・、「場」そのものを、その外側から眺める視座の獲得である。これをファシリテーションというのであろう。

「場」には、常にすでに、非合理の世界が口を開けて待ち伏せしている・・・